日本赤軍の指導者になるまでの重信さんの足取りは、手記や伝記によく描かれている。
彼女は、敗戦の年に4人兄弟の2番目として東京都世田谷区に生まれた。井上日召率いる戦前の右翼団体「血盟団」とつながりのあった父は、八百屋などを営んでいたが、高飛車な性格のため家計は苦しかった。重信は幼い頃から文学少女だったが、高校時代には渋谷で不良を装い、高校卒業後はキッコーマンに就職した。19歳、教師になるために明治大学文学部第二部に入学。
入学と前後して、授業料問題での学生処分反対闘争に共感し、学生運動に参加することになる。当時は、三党の全学連(新左翼)の一翼である共産主義者同盟(ブント)に所属していた。
数年後、ベトナム戦争反対運動や全共闘運動が全国を席巻するが、1969年1月の東京大学安田講堂の「落下事件」をきっかけに運動は萎み始める。運動の行き詰まりからブントが分裂し、彼女は赤軍派に配属されることになった。
重信の役割は秘書であった。当時の赤軍派は、塩見(塩見孝也・会長)、田宮(田宮孝麿・後のよど号リーダー)、堂山(堂山道夫)を中心に回っており、重信は堂山の秘書であった。重信は堂山さんの秘書だった」と、当時を知る元赤軍派メンバーは振り返る。
信頼できる人という印象がありました。彼女はお金がなかった。私たちが窮地に立たされると、どこからかお金を引っ張ってきてくれた。大島渚(映画監督)や松田政雄(映画評論家)が彼女の大ファンで、新宿のユニコーンという店でよく一緒に飲んでいましたね。
天性の誘惑者。彼女をそう評した人は少なくない。彼女の才能は、オーガナイザーの段階でも活かされた。彼女は、当時大繁盛していた「リブ」に入るようなタイプではなかった。それどころか 重信は彼女の「女」をうまく利用する。だから、「魔女」とも呼ばれた。時代もそうした行動を後押しした。後年、「私は重信の本命だ」と言う者もいたそうです。催眠術から逃れられなかったのでしょう。